ゴスペルin動画

 ゴスペルをコンテンポラリーな分野から紹介していき、日常生活の中で元気をもらっているいきさつを綴っていく日記。
 


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人生-愛=ゼロ1969年、ジョン・レンダルとアンソニー・“エース”・バークという2人のオーストラリア人青年が、ロンドンの高級デパート、ハロッズで狭苦しく孤独に、かごの中で売られていた子ライオンを引き取るところから物語は始まる。ロンドンでも最もヒップなチェルシー地区にあった彼らの家での楽しい共同生活。
地域の牧師が、子ライオンを運動させるために敷地を使用してもいい許可を与え、ランオンはクリスチャンと名づけられた。

だが成長したクリスチャンを街中で飼い続けるのはどだい無理な話で、レンダルとバークは映画「野生のエルザ」のモデルになったジョージ・アダムソンの助けを借りて、彼をアフリカのサバンナに帰すことにする。

それから1年後、2人はクリスチャンをケニヤに訪ねることにする。すでに野生に戻って自身の群れを率いるようになったクリスチャンがかつての飼い主を覚えている確率は低かった。だがクリスチャンは、レンダルとバークの姿を認めると彼らの元に駆け寄り、2人に抱きつき頭をこすりつけて再会を喜び……。また、クリスチャンは、奥さんであるメスライオンを彼らに紹介するのである。

愛は限界を知らない、本物の愛情、友情は一生続くものだ。 ご無沙汰している友人か知人に連絡してみてみよう。そして自分がそうして良かったと思うよ。



『愛は決して絶えることがありません。(1コリント13:8)』



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To My Beloved Husband

私たちがどう感じようとも、神さまは現実な方!
物事が順調に動いている時に神さまを礼拝するのは容易い。現実に目の前にある状況を感謝すればいいからだ。



しかし、最も深いレベルの礼拝とは、痛みの中にあるにも拘わらず神さまを褒め称えることだ。理解を超えた試練の只中にあっても主イエスの十字架の御業に感謝し、神さまに脱出の道を備えてくださっている事に信頼し、苦しみの中にあっても神さまにすべてをゆだね、神さまの臨在が全然感じられなくても神さまを愛する。

神さまは私たちとの友情関係を成長させるために、沈黙断絶のように思われる期間を用いて私たちを試される。イスラエルの王様であったダビデも神さまの臨在が全然感じられないことに文句をぶつけている。
『主よ。なぜ、あなたは遠く離れてお立ちなのですか。苦しみのときに、なぜ、身を隠されるのですか。(詩篇10:1)』もちろん、神さまはダビデを見捨てたりはしなかった。

神さまの約束は、『わたしは決してあなたから離れず、またあなたを見捨てない』である。しかし、『あなたはいつも、わたしの臨在を感じるだろう』とは約束されなかった。だから、神さまの行方不明を感じる場面は、何度か通らされるのが普通である。痛みと動揺が伴うが、私たちの信仰の成長のためには欠かせないからだ。 

神さまが自分の人生に働いておられるという明確な証拠を見出せなくても、神さまを愛し、信頼し、従い、礼拝することができるだろうか。これこそが、最も深いレベルの礼拝なのだ。神さまは私たちが神さまの臨在を感じて欲しいと願う以上に、どんな時にも私たちが神さまに信頼することに関心がおありなのだ。神が喜ばれるのは私たちの信仰であって、私たちがどう感じるかではない。

ダビデのように、
1)神さまを信じる
2)神さまは祈りに耳を傾けてくださると信じる
3)神さまに素直な感情をさらけ出しても、神さまの愛は変わらないことを信じる。

道のない砂漠に放り出されたような時こそ、主イエスを褒め称えるのだ。落ち込んでいる時でない。なぜなら、『わたしが道であり、・・・・』と断言され、不可能な状況を可能に変えることができる方だからだ。ジーザス最高!I love Jesus and I love you, my dear.

     
「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。(ヨハネ15:13)」


驚くべき真理は、全知全能な神さまは私たち個人個人と親友になりたいと願っておられることだ。

このように神さまとの友情を築くことができるのは、恵みであり、主イエスの犠牲のおかげなのだ。

1週間に1度教会に通い、毎日聖書を読み、祈る時間を持っていたとしても、それだけでは親しい関係にはなれない。人生の経験をすべて分かち合うことによって築かれていく。日々のデボーションの時間は絶対に欠かせないが、神さまはすべての活動の中に、すべての会話、問題、考えの中にも関与したいと願っておられる。

『絶えず祈りなさい。(1テサロニケ5:17)』とあるが、買い物をしている時でも、車の運転をしている時でも、仕事をしている時でも、どんな時にも神さまと会話をすることである。もし何をする時でもその場に神さまを招きし、絶えず神さまを意識して過ごすなら、私たちのするすべての活動が、『神と時間を過ごすこと』になり得る。

神さまとの友情を深める秘訣は、活動そのものを変えるより、その活動に対しての態度を変えることである。どんな活動の中にも、『あなたの恵みを受け取ります。』『あなたをもっと知りたいです。』『あなたにもっと信頼できるように助けてください。』『あなたは決して私を見捨てない。』こんな具合に短い言葉で頻繁に祈ることだ。目的は、神さまをあがめることで、コントロールすることではないことに注意したい。

問題のことばかり心の中で繰り返し考えるなら、思い煩いになってしまうが、御言葉について心の中思いの中で繰り返すなら、メディテーションになる。要するに、焦点を問題から神の御言葉に移すことだ。相手が何を言っているか意味不明では、友になることは不可能。神の言葉知らずして、神を知ることはできない。神を知ることなくして、神を愛することは無理!

『神との友情は、神を敬う人々にだけ与えられる特別なものです。神は、神の約束の秘密をそれらの人々とだけ分かち合われるのです。』
ガジマ牧師のように・・・・、私もそうなりた~い。

     
人生は一時的な滞在地!
今日も伯母の一人の告別式に参加してきた。94歳だった。人生を最大限に生かすために、2つの真理を忘れてはならない。
1.永遠に比べるなら人生は非常に短い。
2.地上は一時的な住まい。
イスラエルの王ダビデの祈りで、「主よ。お知らせください。私の終わり、私の齢が、どれだけなのか。私が、どんなに、はかないかを知ることができるように。(詩篇39:4)」

私たちの身元は永遠という場所にあり、故郷は天国にあることを忘れてはならない。

キリスト以外の物や誰かに、自分のアイデンティティー、価値観や安心感を捜し求めるなら、偶像礼拝になり、神さまが一番忌み嫌う霊的姦淫になってしまう。「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。(出エジプト20:3)」

自分が国を代表する大使として敵国に行くように遣わされたとする。その国の人々に対して礼儀正しく振る舞い、任務を果たすために現地の言葉を学び、その国の習慣や文化を知る必要がある。その国の人々と接触し、関係を築いていく必要がある。しかし、次第に敵国の居心地が良く感じ、自分の国より敵国を愛するなら、本国に対しての忠誠心は薄れ、使命に対する情熱も冷めてきてしまう。そうなると本国の代表と言うより、裏切り者になってしまう。

聖書では「私たちはキリストの大使である。(2コリント5:20)」とあるが、他のもの(ビジネス、学歴、趣味、結婚相手、子供・・・・)に、自分のアイデンティティーや安心感を見出したりしがちだ。完全な偶像であり、霊的姦淫なのだ。これは巧妙な手口でやってくるので、常に吟味していないと、知らず知らずに主イエスへの愛や忠誠が他のものに目移りしている。神さまとの関係が薄れてきて、神さまから離れていく。そして混乱と破壊的な人生が待ち伏せている。シナリオはできあがっているのだ。解決は、即、主イエスのもとに帰る。

天国である本国に帰る直前に、『どうして自分はこんな一時的なもののために一生懸命やってきたのだろうか。なぜ、このような残らないもののために時間とエネルギーを費やしてきたのだろうか。』 こんな風になりたくない。


     
「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである。(詩篇24:1)」
とあるように、この地上における私たちの時間、知性、人間関係、財産・・・などは、神さまから大切に管理するように任されている賜物である。この地を去る時に持っていくことはできないように、一時的に貸してくださっているにすぎない。

「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。(創世記1:28)」

神さまが人間に与えた最初の仕事は、地上にある神の『所有物』を管理し、その世話をすることであったし、今も同じだ。

聖書は言う。
「あなたがたが持っているもので、神から与えられたのではないものがあるでしょうか。もし、あなたがたの持っているものがすべて神から与えられたものであるなら、どうして自分で獲得したかのように自慢するのですか。」

だから、タラントの話(マタイ25)からも、この地上を終える時に、神さまに任されたものをどのように扱ってきたかが評価され、報いを受けることになる。

そして、「・・・多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。(ルカ12:4)」

私たち一人ひとり神さまから任されている管理者であり、それなりの責任が期待されているのだ。


     
永遠とは何かについて考える唯一の機会はお葬式のときしかないのかもしれない。そしてマイケル・ジャクソンの急死をめぐり大きな反響を呼んでいるが、この地上の人生だけがすべてではない。もし、この地上で過ごす時間が人生のすべてなら、人生の結末など気にせず、好き勝手、やりたい放題にすごせばいいのかも・・・・。

『死』は、体と霊が分離することであり、体は塵にかえるが、霊は永遠に生き続ける。母親の胎内で過ごした9ヶ月が、この地上における人生の準備期間であったように、この地上における人生は永遠への準備期間と言える。

誰もが避けて通ることのできない死の現実に直面せず、触れないように生きていくのは不健全で、愚かではないか。

この地上にはたくさんの選択肢が与えられているが、死を体験するや否や2つの選択肢が待ち受けている。天国か地獄!



もし、神の子イエス・キリストを信じ、このお方を愛しているなら、永遠にこのお方と過ごすことができるが、愛と赦しを拒み、救いを受け入れないなら、永遠に神と引き離されることになってしまう

     
どんな人でも何かに動かされて生きている。受け入れられたい、認められたい、あるいは物質主義のようにより多くの所有することで、より幸せで偉くなるといった動機かもしれない。何かを獲得し所有することができたとしても、それは一時的な幸福感にすぎない。物には飽きてしまうから、さらに最新でクールな物が欲しくなる。

私たちの価値観は、所有物によって決まるものではない。お金にしても、今の時勢のように突然消えてなくなる経験をした人も多いのではないか?

本当の安心感は、決してなくなることのないものの中にこそ見出されるべきだ。それは、神さまとの関係!!!永遠に残るもののために生かされているのだ。

だから、自分の人生に備えられている神さまの目的を知る以上に大切なことはない。目的のない人生は、意味のない単なる運動、方向の定まらない活動、理由なく行われるイベントのようなものだ。

誰しもがいつか、人生の審査を受ける。
「・・・・私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。(ローマ14:10)」

質問1:「わたしのひとり子、イエス・キリストに対してあなたはどのような態度を取りましたか?」 
宗教的背景や教理的見解を問われるのではない。自分のために主イエスがしてくださったことを受け入れ、主を愛し、信じたか?主イエスは言われた『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません(ヨハネ14:6)』

質問2:「わたしがあなたに与えたものを、どのように活用しましたか?」
神が与えてくださったすべての能力、才能、機会・・・をどう用いたか?自分のために浪費してしまったのか?それとも神が私たちを造られたその目的のために使ったのか?

(人生を導く5つの目的から参照抜粋)

主イエスとの関係の中で、「何のために生きているか?」でなく、「何かをするために生かされている!」がわかってくるのだ。
そして、その関係が深まるにつれ、その『何か』が鮮明になってくる。

ジーザス最高!!

     
1ペテロ2:24
「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」

最近タンザニア出身のガジマ牧師のメッセージを聞く恵みが与えられ、圧倒している。

4歳の時に事故で脊髄損傷し、10歳で全身麻痺に。
寝たりきりで6年間過ごし、
医者に死を宣告されるが、夢でイエス・キリストに出会い、
全身麻痺から奇跡的に癒され、クリスチャンになる。

夢の中で、
山の上に十字架を見た。その十字架に掛けられている血だらけで、体が砕かれている男性の生々しい姿をみた。
自分の全身麻痺の状態より、十字架のこの男性の方がもっとさらに苦しんでいると思い、十字架の方へ駆け寄っていき、十字架を抱擁した。『ダビデの子よ。私をあわれんでください。』と叫び続ける中、十字架上の主イエスが力強い威厳ある声で、『わたしの打ち傷のゆえに、あなたは、いやされた~。』

夢から目が覚めても、生々しい情景とあまりのリアルさで、首が震えている自分に気づいた。過去6年まったく動かない状態であったのだが・・・。そして恐る恐る手足を動かし、完璧に癒されているのに驚きと感動。そして主イエスの仕える僕として立ち上がったのだった。

彼自身も死を体験し、天国を訪れ地獄を見せられた。彼の教会では、死人がよみがえるのはごくごく普通のことになっているみたいだ。彼の教会では150人ぐらいの人が、死を体験し、彼らの祈りを通してよみがえっているそうだ。

聖書は、後の雨は初めの雨(ペンテコステ)より凄まじいと言っている。聖書のことばを語るだけでなく、聖書を片手に自分の体験を交えながら、十字架の福音を語る。誰も、テクノロジーも科学もイエス・キリストの復活の力を否定できないのだ。

『イエスだけが道!他の道はない!騙されてはいけない。仏教徒であろうが、イスラム教徒であろうが、神さまはあなたを愛している。あなたを傷つけ怒らせるために言っているんじゃない。あなたが救われるために言う。イエスだけが救いの道!あなたたちは、一度死んで、天国地獄を見せられた牧師からメッセージを聞いている。』と力強く、必死に語る。

近いうちにガジマ牧師の教会を訪問したい。

     
もし神がおられないなら、私たちは皆「偶然」、すなわち宇宙における天文学的数値の無作為による偶然の産物になってしまう。年月が経ち、偶然に猿が足で歩き出した存在なのか?命は、単純な形態から複雑な形態への進化して、強いものが生き残こり行き着いたのが私たち人間であるとした基盤なら、命の尊さを校長先生がどんなに語っても、説得力に欠けると思うのは私だけだろうか?

もし私たちが偶然の産物なら、人生に目的も意味も重要性も見出せないでしょう。たまたま存在しているにしかすぎないのだから。

中学生の頃、優秀な姉たちと比較されるのがいやだった。自分の存在価値観が成績にあると思っていたので、負けず嫌いの私は必死だった。自分が生まれてきた事を不運だと感じたこともあった。

でも、私が生まれてきたのは、間違いでも、自然の成り行きでないことを知った。神さまが計画をもって私を造り、使命を与えてこの世に送りだしてくださった。神さまは愛そのものであり、その愛を注ぐ対象として造られた。

非合法で生まれてくる子たちも多いが、神さまは人間の失敗や罪さえもご計画の中に入れられる方なのだ。聖書の中のギデオンもそのひとりだ。

どんな優れたエンジニアであろうが命を作り出すことはできない。命は他でもない神さまからだ。神さまは気まぐれに物事をおこなったりしないし、決して間違いをおかさない。

「地球の土台が据えられる遥か昔から、神は私たちを心に留め、私たちをご自分の愛の対象とされたのである。(エペソ1:4)」

私もあなたも想像を絶する以上に愛され、使命があって生かされているのだ。


     
中学生ぐらいの頃から、自分を認めてもらいたくて必死に学業に励んだりしたものだが、成績はそれなりに結果が出てても、何のために勉強しているのかがわからないままだった。次のテストのため???どうしても納得できないものがあった。自分の生きている目的がわからなかったからだ。

人生の目的を自分を出発点にして見つけ出そうとしても、ダメなことに気づいた。どんな製品にしても、その製品をデザインした人が、その製品目的を一番知っている。

私はお猿さんから進化したものでない。神さまによって目的があって造られた。

ビジネスをする上で、「自己啓発」の本なんかもかじってみた。自分の夢をさだめる。価値観を明確にする。細かくいくつかの目標を設定する。実行に移す。自己鍛錬をする。目標が達成できると信じる。絶対にあきらめない。・・・・・こんな具合の内容だった。

リック・ウォーレンは言うが、心に固く決意するなら、目標の達成はありうるだろうが、成功=人生の目的達成とは同じことではない。確かにそうだと思う。

人生の目的を見出すには、この世の知恵以上に、人生の取扱説明書である神の言葉に耳を傾けたいものだ。なぜなら、生きる理由、避けるべきこと、今から期待できることが見えてくる。流行の心理学や成功哲学の上にではなく、永遠の真理という土台に築き上げていきたい。



「。。。。私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。(エペソ1:11)」


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Esther

Author:Esther
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