ゴスペルin動画

 ゴスペルをコンテンポラリーな分野から紹介していき、日常生活の中で元気をもらっているいきさつを綴っていく日記。
 


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人が『永遠』について考えるのは、お葬式の時だけかもしれない。さっきある知人が亡くなった連絡があった。しかしそこで抱く考えは、無知に基づく、感傷的なものにすぎないのではないか。『死』は誰もが避けて通ることのできない現実にもかかわらず、触れないようにして生きていく。そんな風潮だが、『死』の向こうに何があるか知らずに生きていく方が、よっぽど不健全で愚かだと思う。苦境に立たされて自ら命を絶とうとしているなら、よ~く考えて欲しい! 自殺は解決でないことを!

長くて100年以上生きるかもしれないこの地上での人生は、本番前のリハーサルのようなものだ。地上の時間は、永遠への準備期間、試験期間と言えるだろう。永遠に比べるなら、この地上での時間は点のようなものである。

いつしか心臓の鼓動が止まる時が来る。聖書は、「私たちの住まいである地上の幕屋(テント)がこわれても、神のくださる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。(第2コリント5:1)」とあり、地上における体は、私たちの霊の一時的な住まいにすぎない『テント』と呼び、将来与えられる体を『永遠の家』と表現している。

この地上にはたくさんの選択肢があるが、永遠は2つだけ。『天国』か『地獄』
「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。(1テサロニケ5:9)」
イエス・キリストを通して差し出された愛・赦しをプレゼントとして受け入れるなら、永遠に神と共にすごすが、拒むなら、永遠に神と引き離された『地獄』なのだ。

「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。(2コリント4:18)」
目に見える以上のものがあることを知るなら、人生は永遠への準備であることがわかるなら、価値観も変えられ、優先順位も変えられていく。

日本人独自の『みんながそうしているから』『みんなも同じことをしているから』が、とりあえず大丈夫ってされているかもしれない。しかしその対象としている『みんな』がどっちに向かっているのかが、問題なのだ。
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コロサイ4:2
「目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。」

『祈り』と言うと、かしこまってしまって特定の形があるように考えがちかもしれない。
ベニー・ヒン牧師のTV番組で教えられたことだが、・・・・・、

なぜ祈りが大切なのか?
サタンは、滅びへの罠をとどめる事なく、計画しているからだ。肉的な自分の頑張りでは、効果的な祈りはできない。聖霊によって祈る。

祈りがなければ、絶対に神にある召しを達成することはできない。救われたクリスチャンであるのに、何で祈る必要があるのか?救いの中に留まるために!!『・・・・・恐れおののいて自分の救いを達成してください。(ピリピ2:12)』

そして祈りは霊的な呼吸で、聖霊の息を吸い込むことである。クリスチャンとして祈りがないと生活なら、霊的に窒息状態で、枯れて死んでいってしまう。

祈りがあるからその結果として主を褒め称え感謝する行為ができる。すなわち息を吸い込む結果は、息を吐き出すことであると同時に、霊的に息を吸い込むことが祈りであって、息を吐き出すことが賛美になる。

おもしろい表現だと思うし、その通りだ!すべては神から与えられ、神に帰す。

ところで、こんどの日曜は聖霊降臨ペンテコステになる。初代教会に聖霊が激しく臨んだのは、120人が一緒に一致して祈っていたときだ。
Let's pray in unity ever before!

     

「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。(コロサイ3:23)」

リック・ウォレンの本にも書いてあるが、神に喜ばれるために私たちがする行為はすべて礼拝ワーシップになる。

ワーシップ(礼拝)は、特定のスタイルをした音楽と捉えがちであるが、音楽を遥かに超えたものである。

自分が喜び楽しむために礼拝するのではなく、神に栄光と喜びすべてを帰す動機からなるものすべてが礼拝なのだ。

毎日のありきたりの生活、寝ること、食べること、仕事、学業、雑用さまざまのすべての活動を、神の前にささげるものとして差し出す時、神の臨在を意識しながらそれに打ち込む時、礼拝になるのだ。

何年か前になるが、ホームレスの人たちに食事を配ったり、聖書のことばを分かち合ったりしていた。
特にクリスマスシーズンに彼らのために、クリスマスパーティを企画した時だった。食事の準備をしていた。私自身疲れていたと言うか、自分たちのしている事がわびしくなってきた。時間、お金、労力を費やしても、何の実も見ることができない。彼らの態度は、横柄!『ありがとう!』の一言もない。重い鍋を持っていっても、手伝う人はわずかだけ。それどころか、してもらって当然!といった態度だ。悲しくわびしく涙が止まらない。

他に誰もいなかった。そんな時、静かで小さな声をはっきりと聞いた。"Thank you!"聖霊なる神の御声!

えっ、神は英語を話されるの?ご心配なく!神は、私たちが理解できる言語をご存知だから、それに応じて語ってくださる。心に強く響く御声だ。イマジネーションや幻想の世界ではない。リアルだ。

だから、悲しい涙でなく喜びの涙に化して、その場に膝まずき主イエスの臨在に圧倒されたのを思い出す。イマジネーションなら、こんな行為アホだよね。主イエスの臨在はリアルなのだ。

だから、何をするにも、人に対してではなく、主イエスに対してするなら、どんな活動も礼拝になりうる。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。(マタイ25:40)』

     
最近ニューヨーク・タイムズベストセラー74週第1位獲得!『人生を導く5つの目的』を読み返してみた。リック・ウォレンという方が書いた書物だが、全米だけでなく、日本語にも訳されている。

人生の目的というテーマは、どの時代の人々に取り上げられるものだ。出発点を「自分」から発してしまうと、「私の願い」「私の目標」・・・、「自分」が居座っている。しかし、自分を中心にして出発しても人生の目的は決して見えてこない。創造主の神からの始点になるべきだ。

「いっさいのものがキリストのうちに始まり、キリストの中にその目的を見出すのです。(コロサイ1:16)」

パウロは、目標が定まっていた。何かの資格試験に合格するとか、そんな目先の目標だけではない。永遠に向かっている目標だ。

そして、目標がわかることによって、生きている意味価値観がわかる。

人生がシンプルになり、焦点が定まるので、自分の努力とエネルギーを集中させることによって、仕事の効率があがる。どうでもよいことに捕らわれて目的からそれてしまうことが、よくありうる。私自身も・・。

目的がわかるなら、人生に力強い動機づけが与えられて、情熱的に生きることができる。

人生の目的がわからないなら、わかっていると言っても再認識するためにも、この本『人生を導く5つの目的』(パーパス・ドリブン・ジャパン)を読んでみてはどうだろう。

     
幼いころから(赤ちゃんのころから)、カトリック教会と関わりを持っていた。叔父のひとりも神父であった。子供が受ける儀式である初聖体とか堅信なんかにも参加した。だから自分はず~っとクリスチャンと思っていた。

ところが、大学時代を神戸で過ごした。この時期が今思うと大きなターニングポイントになった。近辺の大学と合同で成り立っていたサークルに参加するようになった。正式な名まえは忘れたが、英語で国際交流を持ちながら、聖書を学ぶものだった。アメリカからの宣教師や有志たちが指導していた。そこで多くのクリスチャン大学生に出会った。そのサークル以外でも、最終的にクラスの3分の1ぐらいがクリスチャンだったのではないか?

今、思うとあの大学生時代に、それまでの20年間見てきていなかったクリスチャンの本質を見せられたのだと思う。今なら当然のことであるが、あの頃は目からうろこが落ちるような体験だった。10代後半20代のクリスチャンと時間を共に過ごしながら、彼らと私の大きな違いを否定できなかった。彼らは、それぞれルーテル教会、バプテスト教会と行く教会は別々だった。しかし、一緒に祈り、一緒に聖書を学び、一緒に主の自分の生活にどのように介入してくださったかを分かちあったりしていた。教会は違っても、聖霊の一致、聖書のことばを土台において一体感があった。

私も幼いころから教会に行ってたし、クリスチャンだと思い込んでいたが・・・・。彼らのように聖書読んでないし、教えられていなかったし、祈りも祈祷書から読み上げるようなものだった。彼らは、進路の選択でも、『ここの聖書の箇所を通して主が語ってくれて、こちらの道を選択する導きを感じたし、確信がある。何よりも平安がある。』そんな会話が飛び交っていた。正直言って、聖書の事も何も知らないし、そんな会話に入れない事に恥ずかしさも感じたが、・・・・・彼らと一緒にいることが楽しかった。

彼らの信じて確信おいていることと、彼らの生活が密着していた。私と言えば、バラバラ!すべて自分が主体で動いていた。彼らの生き方に魅力をすっごく感じた。自己中心から解放されている。彼らの姿が本来あるべき姿だと直感したし、同じ世代の者が、聖書のことばに確信おいて生きてる姿はカッコイイとも思った。生かされている目的が明確で力強さも感じた。

カルトなんかで洗脳されている不気味さではない。異常な雰囲気ではない。姉が統一協会にはまっているので、違いは明確!

そして、参加する予定していなかったクリスマスキャンプ!友人たちが、強く勧めてくれて、車で下宿先まで荷物を取りにつきあってくれて、待たせたし・・・
晩ゴハンが、全然クリスマスらしくない、レトルトカレーだった。ケーキを食べたか食べてないか覚えていない。そんな事はどうでもいい。食事の後、電気を消して、キャンドルともしながら、『きよしこの夜』をみんなで歌っていた時、涙が止まらない。幸いに暗かったので、周りにはあまり気づかれなかったと思うけど、すすり泣きがとまらない。泣くスタンバイしていなかったので、ティッシュもハンカチもない。悲しいわけでないのに・・・、イエス・キリストの十字架が、2000年前の歴史上のたんなるビックイベントでなく、この私の罪のためであることが明確にわかった。口では表現できない愛が滝のように、私に押し寄せてきて、涙が止まらなかった。コントロールできないから、涙でぐちゃぐちゃになるままに。
友人たちは、私が何かの人生の問題を抱えていて、泣いていると思ったかもしれない。泣いているのは私だけだった。




     
エペソ2:8、9
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」

要するに、相手の一方的な好意のゆえに、相手に対しての信頼、確信をとおして、自分の手元にゲットする贈り物。もちろん代金は相手が支払ってくれてる。だから、自分ができることは、危険なものを手渡されているんじゃないという確信とその相手に信頼を置いて、喜んで手を差し出して受け取るだけ・・・・。

だから、自分の手を出して受け取っただけの行為に対して自慢している自分っておかしいんじゃな~い。

先日、Yさんから旅行先のおみやげをいただいた。花柄のかわいい包装袋に入っていた。もし、私がそのおみやげ(プレゼント)を、遠慮か、不信感からか、どんな理由にせよ、受け取らなかったら、中身のおいしいキャンディーを楽しむことはできなかった。

主イエスの十字架での犠牲的な愛、美しくて涙をそそる話を聞いているだけでは、何にもならない。
中身のプレゼントを自分で食べるとき、体験するとき、ありがたみがわかる。
自分の心を開いて、このお方を受け入れるときに、最高なプレゼントであることが実感できる。

『主イエスさま、あなたを私の心に受け入れます。私の罪のために十字架に行ったことを信じます。私のすべての罪、悪を赦してください。そして私の心の中にお入りください。私の人生を導いてください』

     

エペソ1:3「・・・神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」

『祝福してくださるでしょう。』の未来形ではなくて、完了形になっているところに注目したい。

「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。(2コリント8:9)」プラスである方がマイナスの私たちがプラスになるためにマイナス以下になってくださった。

「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。(ピリピ4:19)」

私たちが望むところの祝福は、自分の努力や行ないのゆえではなく、一方的なキリストのゆえ。

じゃあなぜ、すべての霊的祝福の恩恵に十分あずかっていないのだろう????

主人が言っていたたとえがおもしろいと思う。
『愛する妻が家を買って欲しいと言えば、買うけど、他の人が、家が欲しいと言っても買わない。楽しい時だけでなく、苦しい時も共にしてきた妻!親密な関係にある人だから、買う。』

私たちも、実際キリストの花嫁と召されている。遠い、誰かを経由しなくてはいけない関係でなく、直接的近い、親密な関係の中に入ることができるのだ。

もうすぐ結婚する女性と最近知り合いになった。彼氏は本国で、彼女は今日本で勉強している。先日『祈りの祭典』カンフェランスで3日間共に時間を過ごしたが、気付くと、5分おきぐらいに国を隔てて、携帯電話でメールのやりとりをしていた。内容は・・・正直言ってたいしたことではない!
『ご飯今食べた』とか、『今、雨が降ってる』みたいなコンテンツ!ホウレンソウ(報告、連絡、相談)がしっかりしている。第3者の入る余地全くなしって感じ!

それとは、正反対で、以前ヘアカットしてくれた美容師さんの事を思い出した。『私、彼氏と全然連絡とりあってないのよね~。』『どれぐらい?最後に会ったのいつ?メールなんかは?』『もう、1年以上もメールしていないのよね~。彼、忙しいから・・・。』
絶句!!!『それっ、時間がないって言うより、気がないじゃないですか?』って言いそうになったが、喉のところでグッと・・・・。

主イエスと、1年以上も音信不通になってません?私はMちゃんみたいに、主イエスと5分おき、いやもっと頻繁に、もっと親密な関係になりた~い。




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Esther

Author:Esther
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