ゴスペルin動画

 ゴスペルをコンテンポラリーな分野から紹介していき、日常生活の中で元気をもらっているいきさつを綴っていく日記。
 


2017/10«2017/11 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 »2017/12
     
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

     


神さまが僕の人生にしてくださったことをいつも分かち合いたいと思っています。オーストラリアのクリスチャンの家庭で生まれたにもかかわらず、神さまが手足のない男を用いて何ができるんだと理解しがたかったです。

孤独を感じ、神さまも僕のことを忘れてしまったとよく感じたものでした。奇跡を期待して、手足が与えられるように祈りました。だって、聖書は、求めなさい、そうすれば与えられるからと言っているし。。。。

そして、なぜ僕がここにいて、僕の存在は何のためなんだと思いつめていました。

僕の人生が変わったのは、僕が15歳の時に、自分の人生にジーザスに介入してくださるように求めた時からです。

盲人について書かれてあるヨハネ9章を読んだ時、彼がこのような状態で生まれたのか誰も分からなかったのです。

突然に神さまへの信頼と平安の波が僕の心に入り込んで、神さまは僕の事を忘れてなんかいないっていう事がはっきりとわかりました。あの目の見えない人の事を忘れていなかったし、彼に神さまのご計画を用意しておられました。
そして神さまは僕に特別な計画がある!
僕に神さまの計画が理解できないからといって、ないわけではない。

僕たち多くの者は真剣に神さまに信頼を置く前に、僕たちの周りを変えてくださることをもとめます。
でも、神さまに関して驚くべきことは、キリストにある勝利は、周りの状況を変える前に僕たちの心を変えることがおできです。

僕の場合は1例にすぎないです。
神さまは、僕にミラクルを与えないにせよ、僕自身をミラクルにしてくださる。
手足のない一人の男を、主の手足となって用いることができることです。
スポンサーサイト

     
『わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。(ヨハネ16:33)』



私に大きなインパクトを与えている一人が、ニックさんです。彼は生まれた時から、手足がありません。ご両親はとっても敬虔なクリスチャンで、彼の誕生を当初心から喜べませんでした。『なぜ、こんな事がおこるのか?』

お母さんの方はうつの状態になってしまい新生児のニックを受け入れることができなかったのです。

しかし、神さまが両親の心に触れてくださり、彼らはニックさんを親の愛情で受け入れていきました。



でも、彼自身が物心ついたころには、両手両足のない自分に対して、生きる目的理由が見出せなかったのです。



『もし、僕の事を愛してくれる神さまがおられるのなら、なんで神さまはぼくに手足をくれなかったんだ?どんな人生が待ち構えているんだ? そして生きている価値が全く見えませんでした。



神さまの約束からどんなにかけ離れているにせよ、自分の人生が神さまの目的からどんなにかけ離れていようと、。。。。神さまの約束である勝利は、自分自身の力では絶対に乗り越えることができなことに気づくことから始まるのです。



手足のない自分を人々はどう思うかという恐れ!自分の将来に対しての恐れ!でも、あなたの名前も神の手のひらに刻み込んであるのです。あなたの人生にすばらしい計画と将来を備えておられるのです。どんな状況を通らされているにせよ、神さまはご存知であり、そこから引き上げてくださるのです。



私は神さまに両手両足を願いました。イエスさまの救いを人々に伝えるには前に、両手両足が与えられる奇跡が必要だと考えていました。その事を通しても、神さまの偉大な力を人々が知るきっかけとなるからです。



でも、神さまは私の心にささやかれたのは『ニック、手足がない姿のあなたこそがミラクルなのです!』



手足の無い男が微笑んで人々に勇気を与えているミラクルを誰も論議できないのです。手足の無い男の内からのエネルギーに論議できないのです。神さまにある希望に論議の余地はないのです。



どのような境遇でありにせよ、神さまはすぐに状況を変えられないかもしれないです。でもその出口の見えない絶望の状況から神さまのある希望に入れてくださいます。』

     
ジーザスの人格を自分がどう捉えるかによって、自分のジーザスに対してのアプローチの仕方が違ってくるでしょう。以前聖書もよくわかっていない、読んでもいない、学んでもいなかった時の神さまの印象は、近づきがたいく厳しい、そんな印象を勝手に抱いていました。神さまの方としたら良い迷惑だったと思います。

聖書を読めば読むほど、ジーザスの人格はとってもフレンドリーなのを否定できません。ヨハネ4章のサマリヤの女性とのやりとりから見ても、虐げられている人たちに、率先して接近してゆくお方。サマリヤ人の女性も、彼女自身の罪の生活を言い当てられても、ジーザスとの会話に心地よさを感じ、、長話を楽しんでいます。

人々から嫌われていた取税人ザアカイに声をかけ、おまけに彼のお家で食事をしました。食事を共にすることは、フェローシップの象徴です。私たちも気の合う仲間と食事しますよね。

また何よりも幼い子どもたちが、ジーザスの周りに寄って来ました。幼い子どもは敏感です。親は別として、フレンドリーでない、自分を受け入れてくれない大人には寄り付きません。

そして、私たちに対して『わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。わたしはあなたがたを友と呼びました!』と言ってくださるのです。

人と人のつながりが希薄な時代です。子どもを虐待する親が増え、自分の老いた親が生きてんのか、死んでんのか、どこにいるかわからない。。。。無人島にいるわけではないのに、人は周りにいるけれど。。。。ハートとハートのつながりがない。用事がなくなれば、つながりもなくなる。

でも、『わたしはあなたのベストフレンド!わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない!』と言われる神さまがおられる。

孤独なとき、やるせないとき、絶望なとき、本音でこの神さまに囁いてみませんか?

フレンドと呼んでくださり、ベストフレンドになってくださるジ~ザス
さんきゅ~ジ~ザス!


     
ジ~ザスは人となるために、神のあり方を捨て、無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われたのです。(ピリピ2:6-8)

人間の一番の恐怖は死ですよね。そして私たちと同じように血と肉体を持ち、死からの復活を通して死の恐怖につながれている私たちを解放してくださっているのです。また、ご自身が拒絶、孤独、虐待、偏見、重圧。。。の試練を受けて苦しまれたので、苦しんでいる私たちを理解できます。そして助言を与えるだけでなく、私たちを助けることができるのです。(ヘブル2:14-18)

ジーザスは、私たちが罪人で悪いやつであったときに、私たちのために死んでくださったのです。ジ^~ザスを拒絶し、無視している時であっても、神さまの愛は私たちの上に注がれているのです。

会社の友人から借りている『告白』という本ですが、リベンジとか、罪責感とか、死の恐怖とかでくもの巣のように解決の糸口が無くぐちゃぐちゃしています。そん中で、殺人を犯した自分の息子をかばい、息子のありのままの姿を受け入れる母親の姿があるわけです。無条件で愛する母親の愛はすばらしく感動させられますが、他人に責任を押し付ける醜さ、憎しみの両面性をもった愛なのです。罪責感と死の恐怖に落ちていく息子を人間の優しさ愛で解決できないのです。結局親子心中を図るのですが、息子は拒んで、母親を殺してしまったのです。まだ最後まで読んでいないので、どんな展開になっていくか。。。

ここで、ジ~ザスの十字架の愛が登場してくれば、スカッとさわやか神の愛で解決できるのに。。。。
ぐちゃぐちゃなくもの巣のような光の見えないところでも、希望があるのに。。。小説だろうけど、神さまの愛の偉大さに改めて脱帽してしまいました。

神さまは、全く罪のない罪を知らないイエスを、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神さまの前で正しい者となれるためのです。(2コリント5:21)

これって本当だったら凄いことですよね。

『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、(あなたを)世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)』

主イエス様、私を救うためにこの世に来てくださったことを感謝します。私の罪のために死んでくださったことを感謝します。どうか私を赦し私の生活を新しくしてください

     
イエスは今までこの世に生きた有名な人々の内の一人です。漫画で描かれた歴史上の偉人伝シリーズの中にもあります。でも、彼はただの人ではないのです。

実際の誕生から何百年も前に預言者イザヤよってイエスの誕生が預言されているのです。どんな偉大人物であっても、預言されて生まれてきた人はいないでしょう。

「見よ。処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。(イザヤ7:14)」

それだけではなく、処女マリアが聖霊によって身重になったのです。(マタイ1:18-25)聖書に不妊の女性サラやエリザベツが子を産む話が出てきますが、処女が子を産むのはこれっきりです。生物学的に無理です。

そして誕生が奇跡だけでなく、悪霊を追い出し、病人を癒し数々の奇跡をおこないました。これも、預言者イザヤが預言しているのです。

『まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。(イザヤ53:4,5)』

このように聖書は、イエスがどのように死ぬのかも預言しているわけです。寿命を全うするのではなく、『罰せられて、打たれ、刺し通され砕かれる』。まさに、十字架刑ですよね。

十字架刑で33歳の生涯を終えるわけですが、。。。。
なんと3日後に復活してしまうのです。
『驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ここがあの方の納められた所です。(マルコ16:6)』

おまけに、自称『わたしは神の子だ!』と断言しているのです。普通言えないですよね。
C.S.ルイスはこのように結論づけています。
『われわれは、したがって、おそるべき二者択一に直面しているわけです。この人が、まさに自分で語られたような方であるのか、あるいは気のふれた人、あるいはもっと悪い者であるのかいずれかです。私には、その人が気のふれた人でもなければ悪魔でもなきことは、明らかなようにみえます。したがって結論として、どんなに奇妙であり、おそるべきことであり、あり得そうもないことのように見えても、私は、その人が神であり、神あったという見解を受け入れざるを得ません。神は、この敵に占領された地に、人間の形をとって上陸されたのです。』

今も生きておられるジ~ザス!私たちの罪のために死んだ神さまだけでなく、今も生きておられ、希望を与える神さまです。

イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。(ヘブル13:8)

ジ~ザス最高!


プロフィール

Esther

Author:Esther
Welcome to My Blog!
私はゴスペルが大好きです。I love Gospel!!
是非、クリックして聴いて歌ってみてください。
Please click and listen to those songs.

最新トピック
リンク
このブログをリンクに追加する
FC2アフィリエイト
旅ポケドットコム
最新コメント
月別アーカイブ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。