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先日、ひらひらのロングスカートで自転車に乗っていた。ちょうどそのとき、私の思いの中は、主人の言動に対してのイライラの怒りと、そうでない冷静な見方の思いが絡みあっていたときだった。その時異変が起こった。
自転車の後輪にスカートの裾がはさまれてしまい、絡んでいってしまったのだ。街中でのことだったから、パニクッってしまったが、私としては必死だから、人の目なんか入ってこない。聖書の中の良きサマリヤ人のお話に登場してくる見て見ぬふりするレビ人や祭司たちが通りすぎる中、良きサマリヤ人役を演じきった2人の子連れの夫婦が手を貸してくれた。
絡みから解けたとき、私の性格的なものか、思わず拍手をしてしまった。神に感謝!そして親切なご夫婦に感謝!
そんな場面からも、私たちの思いの中は、メチャメチャな支離滅裂の思いで絡みやすいことに気づかされた。メチャメチャに絡みあった状態で先に進もうとしても、かえって絡んでしまう。
忙しさの中で、どんどん絡みあっているのにも気づかずに、先に進もうとする。立ち止まるのがベストだ。だからと言って立ち止まっていれば、自転車に絡んだスカートの裾が自動的に解かれるわけはないだろう。時間が、絡み合った思いを解決してくれるわけではないだろう。時間が解決すると思い込んでいるのは、絡み合った状態に慣れっこになっているだけのことだ。解決は真理で解かれていかなくてはならないのだ。
『あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由に(解放)します。(ヨハネ8:32)』
その通りだ。
やっぱり、み言葉の真理と祈りの大切さを実感した!!
自転車の後輪にスカートの裾がはさまれてしまい、絡んでいってしまったのだ。街中でのことだったから、パニクッってしまったが、私としては必死だから、人の目なんか入ってこない。聖書の中の良きサマリヤ人のお話に登場してくる見て見ぬふりするレビ人や祭司たちが通りすぎる中、良きサマリヤ人役を演じきった2人の子連れの夫婦が手を貸してくれた。
絡みから解けたとき、私の性格的なものか、思わず拍手をしてしまった。神に感謝!そして親切なご夫婦に感謝!
そんな場面からも、私たちの思いの中は、メチャメチャな支離滅裂の思いで絡みやすいことに気づかされた。メチャメチャに絡みあった状態で先に進もうとしても、かえって絡んでしまう。
忙しさの中で、どんどん絡みあっているのにも気づかずに、先に進もうとする。立ち止まるのがベストだ。だからと言って立ち止まっていれば、自転車に絡んだスカートの裾が自動的に解かれるわけはないだろう。時間が、絡み合った思いを解決してくれるわけではないだろう。時間が解決すると思い込んでいるのは、絡み合った状態に慣れっこになっているだけのことだ。解決は真理で解かれていかなくてはならないのだ。
『あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由に(解放)します。(ヨハネ8:32)』
その通りだ。
やっぱり、み言葉の真理と祈りの大切さを実感した!!
誰を見ていますか?どんなタイプの人を見ていますか?
イスラエルの民たちも、大多数が、気持ち信仰に陥っていったので、みんながみんながそうなっていったから、・・・・・みんな回りがそうだから・・・・
乳と蜜の流れる祝福に満ちた約束の地に入ることができなかったのです。
同じように、私たちも、気持ち信仰の罠に陥り、視覚に入ってくる他のクリスチャンもおなじように気持ち信仰に陥れられている。それ見て安心してしまっていないでしょうか?ああ良かった自分だけじゃない!そして、神さまの祝福を願い祈る!
『神さま、あなたに従いたくないで〜す。そんな気持ちじゃない。気分が乗らないから。でも祝福して〜!』
神さまも天から
『わたしは、サンタクロースじゃな〜い!あなたと深い愛の関係を築きたい!片思いはつらい(泣)。。。。』
『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。』と言われる主イエスに喜んで従っている人たちを、私はよ〜く注意して見ているのです。
だって、主イエスが支払ってくださった代価の祝福の話をするだけでなく
私は、3歳のニーナと遊ぶことが大好きです。先日も彼女の7歳の伯母と一緒に、家に遊びに来てくれてそん中で、神さまとの関係がどうあるべきかを教えてくれる。もちろん、3歳の彼女が教えるんではなく、彼女のしぐさを用いて聖霊が語ってくれた。
車に乗せ、家に向かう途中でも、運転する私の隣で、『ママは?』って・・・。それに対して、『ママはお家だよ。』納得したのか、沈黙!
私の家に着き、また『ママは?』て聞いてきた。7歳の優香ちゃんも、『ママはお家で、パパと病院に行ってるんだよ。』と説得に励む。外はカミナリが凄まじい!『怖い!怖い!』と、抱っこを求めてくる。すっごくカミナリが怖く、普段は泣くらしいが、泣かなかった。偉い、ニーナ!
パズルゲーム、絵本、カードゲームなんかで遊んでいる中、何度も、『ママは?』って聞いてくる。だから、『ママはお家!』・・・この繰り返しが結構続いたと思う。
楽しげにカードゲームをしていた。また、思い出したのか『ママは?』、『ママはお家だよ。』そしたら、急に号泣!お菓子、大好きなアンパンマン、ビーチボールなんかで、彼女の気をそらそうとしたが、効き目全くなし。そして、車に乗せて、ニーナのお家の方に移動したわけです。
ママの存在を忘れさせようとして気をそらせようとして、差し出されてくる誘惑的な魅力的なアンパンマン、お菓子、どんなゲームであっても、ニーナにとっては、ママが一緒にいてくれることの方が断然に勝るし、それを望む。
こんな状況を通して聖霊なる神が、『わたしの事を忘れさせようとするこの世の心づかいや、富や、快楽に十分気をつけなさい。それらによってふさがれてしまい、主イエスとの愛の関係がくずれ、そこに壁ができ、他のものに愛を注ぎ込んでしまい、わたしの臨在がそこになくとも、気づかずに時をすごしていく。幼子がママと一緒でなかったら、アンパンマンがあろうが、何がなんでもいや!絶対に妥協できないと言うくらいにわたしを求めなさい。どこにいても。。。あなたがわたしを離れ、見捨てない限り、わたしは決して、あなたを離れない。決して見捨てない!決して孤児にはしない。』
先日もニーナの家にいって、『また、私の家に遊びに来るんだよ。』、そしたら、『ママも一緒?』
私も心の中で、『聖霊さま、私もあなたとどこに行くにも一緒!』
ダビデが祈ったように、「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに日々新しくしてください。私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。」
人生−愛=ゼロ
1969年、ジョン・レンダルとアンソニー・“エース”・バークという2人のオーストラリア人青年が、ロンドンの高級デパート、ハロッズで狭苦しく孤独に、かごの中で売られていた子ライオンを引き取るところから物語は始まる。ロンドンでも最もヒップなチェルシー地区にあった彼らの家での楽しい共同生活。 地域の牧師が、子ライオンを運動させるために敷地を使用してもいい許可を与え、ランオンはクリスチャンと名づけられた。
だが成長したクリスチャンを街中で飼い続けるのはどだい無理な話で、レンダルとバークは映画「野生のエルザ」のモデルになったジョージ・アダムソンの助けを借りて、彼をアフリカのサバンナに帰すことにする。
それから1年後、2人はクリスチャンをケニヤに訪ねることにする。すでに野生に戻って自身の群れを率いるようになったクリスチャンがかつての飼い主を覚えている確率は低かった。だがクリスチャンは、レンダルとバークの姿を認めると彼らの元に駆け寄り、2人に抱きつき頭をこすりつけて再会を喜び……。また、クリスチャンは、奥さんであるメスライオンを彼らに紹介するのである。
愛は限界を知らない、本物の愛情、友情は一生続くものだ。 ご無沙汰している友人か知人に連絡してみてみよう。そして自分がそうして良かったと思うよ。
『愛は決して絶えることがありません。(1コリント13:8)』
To My Beloved Husband
私たちがどう感じようとも、神さまは現実な方!
物事が順調に動いている時に神さまを礼拝するのは容易い。現実に目の前にある状況を感謝すればいいからだ。
しかし、最も深いレベルの礼拝とは、痛みの中にあるにも拘わらず神さまを褒め称えることだ。理解を超えた試練の只中にあっても主イエスの十字架の御業に感謝し、神さまに脱出の道を備えてくださっている事に信頼し、苦しみの中にあっても神さまにすべてをゆだね、神さまの臨在が全然感じられなくても神さまを愛する。
神さまは私たちとの友情関係を成長させるために、沈黙断絶のように思われる期間を用いて私たちを試される。イスラエルの王様であったダビデも神さまの臨在が全然感じられないことに文句をぶつけている。
『主よ。なぜ、あなたは遠く離れてお立ちなのですか。苦しみのときに、なぜ、身を隠されるのですか。(詩篇10:1)』もちろん、神さまはダビデを見捨てたりはしなかった。
神さまの約束は、『わたしは決してあなたから離れず、またあなたを見捨てない』である。しかし、『あなたはいつも、わたしの臨在を感じるだろう』とは約束されなかった。だから、神さまの行方不明を感じる場面は、何度か通らされるのが普通である。痛みと動揺が伴うが、私たちの信仰の成長のためには欠かせないからだ。
神さまが自分の人生に働いておられるという明確な証拠を見出せなくても、神さまを愛し、信頼し、従い、礼拝することができるだろうか。これこそが、最も深いレベルの礼拝なのだ。神さまは私たちが神さまの臨在を感じて欲しいと願う以上に、どんな時にも私たちが神さまに信頼することに関心がおありなのだ。神が喜ばれるのは私たちの信仰であって、私たちがどう感じるかではない。
ダビデのように、
1)神さまを信じる
2)神さまは祈りに耳を傾けてくださると信じる
3)神さまに素直な感情をさらけ出しても、神さまの愛は変わらないことを信じる。
道のない砂漠に放り出されたような時こそ、主イエスを褒め称えるのだ。落ち込んでいる時でない。なぜなら、『わたしが道であり、・・・・』と断言され、不可能な状況を可能に変えることができる方だからだ。ジーザス最高!I love Jesus and I love you, my dear.
私たちがどう感じようとも、神さまは現実な方!
物事が順調に動いている時に神さまを礼拝するのは容易い。現実に目の前にある状況を感謝すればいいからだ。
しかし、最も深いレベルの礼拝とは、痛みの中にあるにも拘わらず神さまを褒め称えることだ。理解を超えた試練の只中にあっても主イエスの十字架の御業に感謝し、神さまに脱出の道を備えてくださっている事に信頼し、苦しみの中にあっても神さまにすべてをゆだね、神さまの臨在が全然感じられなくても神さまを愛する。
神さまは私たちとの友情関係を成長させるために、沈黙断絶のように思われる期間を用いて私たちを試される。イスラエルの王様であったダビデも神さまの臨在が全然感じられないことに文句をぶつけている。
『主よ。なぜ、あなたは遠く離れてお立ちなのですか。苦しみのときに、なぜ、身を隠されるのですか。(詩篇10:1)』もちろん、神さまはダビデを見捨てたりはしなかった。
神さまの約束は、『わたしは決してあなたから離れず、またあなたを見捨てない』である。しかし、『あなたはいつも、わたしの臨在を感じるだろう』とは約束されなかった。だから、神さまの行方不明を感じる場面は、何度か通らされるのが普通である。痛みと動揺が伴うが、私たちの信仰の成長のためには欠かせないからだ。
神さまが自分の人生に働いておられるという明確な証拠を見出せなくても、神さまを愛し、信頼し、従い、礼拝することができるだろうか。これこそが、最も深いレベルの礼拝なのだ。神さまは私たちが神さまの臨在を感じて欲しいと願う以上に、どんな時にも私たちが神さまに信頼することに関心がおありなのだ。神が喜ばれるのは私たちの信仰であって、私たちがどう感じるかではない。
ダビデのように、
1)神さまを信じる
2)神さまは祈りに耳を傾けてくださると信じる
3)神さまに素直な感情をさらけ出しても、神さまの愛は変わらないことを信じる。
道のない砂漠に放り出されたような時こそ、主イエスを褒め称えるのだ。落ち込んでいる時でない。なぜなら、『わたしが道であり、・・・・』と断言され、不可能な状況を可能に変えることができる方だからだ。ジーザス最高!I love Jesus and I love you, my dear.